「イプシロン」の打ち上げ成功と伊能忠敬

 「3,2,1,0……アーア」と、日本中をがっかりさせた日本製小型ロケット「イプシロン」の打ち上げ失敗からさほど間をおかず、「イプシロン」は今度はあっさり地球を飛び立って行った。日本期待の新型ロケットの打ち上げ成功である。

 イプシロンは種子島から打ち上げられるH2A系のロケットとは違って、内の浦から打ち上げられる、古くは東大系ペンシルロケットから発展した、現JAXA系の小型ロケットで、そのコストパフォーマンスを期待されているが、50年前にペンシルロケット(カッパ、ラムダ、ミューなど)の開発に尽力したのが東大の糸川英夫博士である。

 そんな古いこと知らないよ、という人も、日本の宇宙探査機「はやぶさ」が小惑星「イトカワ」の探索に向けて打ち上げられたものの、予想外の故障で一時は絶望視されたのが、数年掛かって宇宙飛行しながら修復され、「イトカワ」探索の成果物を持って無事地球に帰還した成功物語は記憶に新しいであろう。一時は大ニュースで、毎日テレビで放送していたし、チーム・はやぶさの苦労話は映画にもなった。

 小惑星「イトカワ」という名は糸川博士に因んだ名前である。それぐらい糸川博士の貢献は大きい。が、ここでの話は、糸川博士の東大退官後のことである。博士は60歳にして東大を定年退職したのち、何と有名な貝谷バレー団の主催者=貝谷八百子に「弟子入り」し、60の手習いよろしく「足上げ」からバレー修業を始めたのである。

 今でこそ、60歳はまだ若いとか、65歳まで働こうとか、定年後には何か趣味を、と言われるが、糸川博士はその後修行を重ね、何と貝谷バレー団の公演「ロミオとジュリエット」のモンタギュー伯爵役で帝劇デビューを果たしているから凄い。レベルが「趣味」の域を超えて「プロ」まで行ったということである。何事もとことん突き詰めないと気が収まらない人だったのであろう。

 日本地図作製で有名な伊能忠敬も50歳までは家業の酒造業を(千葉県)佐原で淡々と務め、50歳になるや家督を譲って江戸に出、かねて興味を抱いていた天文の勉強を始めた。その後の活躍はここでは省略するが、その年齢を超えた探究心、好きなものへチャレンジする精神には頭が下がる。しかも、その業績の世界的な意義は高い。

 日本企業は、いま必死になって「グローバル人材」を育てようとしているが、そもそも好奇心が旺盛で、自分のやりたいことをはっきり持ち、「やってみよう」という精神を持てれば、50歳、60歳を超えて始めたことでも一流のレベルに到達するという好例であろう。それにしても、明治維新を担った日本人たちも若かったが、糸川博士、伊能忠敬の「若さ」には恐れ入るばかりである。

カテゴリー: グローバル人材, 異文化マネジメント, 語学・教育 パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です