日本人の精神性とオリンパス問題

「あなたの宗教は(?)」…… 日本人の一番苦手な質問である。

海外慣れしている日本人なら、無難に「仏教」と答えるかもしれない。しかし、本心は違う。「葬式仏教」と言われるように、日本人の日常生活に仏教と触れる部分はほとんどないことを知っているからである。むしろ、「正月と七五三は神道(お参り)、クリスマスと結婚式はキリスト教(クリマス・プレゼントとウェディング・ドレス)、法事は仏教(葬式、命日)」というのが平均的な宗教との接点であって、言ってしまえば日本人は「多宗教」な人種なのである。

「多宗教」と言えば格好がいいが、要するに「何でもあり」なのであって、「何でもあり」ということは「何でもいい」ことにつながる。「苦しいとき、困った時の神頼み」と言われるが、例えば受験生は一体何の神様に頼んでいるのか、多分、漠然とした存在としての「神様」なのであろう。日本人が信じている、あるいは日常生活の中で触れているという意味での「霊的存在」と言えるのは、「御先祖様」ではないだろうか。朝、一日の始まりにご飯などの「お供え物」をし、久しぶりに帰郷したと言っては仏壇に向かって拝んでいるのは、どう考えても「位牌」であって、「仏陀」であるとは考えられない。つまり、日本の家庭で「仏壇」と呼ばれているものは「位牌置き場」なのである。

「先祖信仰」が所謂「未開の」部族・民族に広く見られる現象であるのはよく知られている通りである。信じられる存在、取り敢えず自分を守ってくれる存在としては、血が繋がり、生活を共にしたことのある家族であり、その係累としての「先祖」なのであろう。次に信じられるのが、身の回りに居る動物であって、美しい羽根をもった鳥である場合もあろうし、狩りの対象(日常の糧)であるかもしれない。

「未開の部族・民族」という表現を使ったが、実は、日本人は「動物信仰」を持つ世界でも珍しい「国民」である。日本各地に広く見られるキツネ信仰、所謂「お稲荷さま」である。「私たちはキツネを祭って拝むことがある」という事実をそのまま伝えたら、恐らく欧米人は仰天するであろう。日常生活レベルで「動物信仰」が残っているのは、アジアでも日本とパプアニューギニアなどの一部に限られる。

日本人の精神性は意外に幼いものである。自分の意見を持てずにすぐ親や他人に相談するし、他がどうするかを見てから決めようとする、大事なことをなかなか一人では決められない。人前では自分の利害を主張しないし、意見の強い者には多少抵抗はしても結局は従ってしまう。信じられるのが親や親戚で、願い事をするのがご先祖様や動物(キツネ)というのでは、精神の自立性は低いとみざるを得ないであろう。

だから、日本人には「良心的徴兵拒否」はあり得なかったし、上官の命令に逆らって非戦闘員を殺害することを拒否することも難しかった。「人がどう言おうと、自分は自分の良心・信念に従って行動する」というのは、成熟した成人の証である。オリンパスで起きたような「巨額の損失隠し」を目の当たりにして、それを見逃したり先送りしたりすることは経営者としての自分の信念からしてできない、というのが西欧的な意味での自然な「経営者の行動」なのだということの意味を、日本人はもっとよく考えた方がいい。

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