社外取締役の勝利?そして、物言う株主!

2016年04月30日

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 セブン&アイ・ホールディングスの鈴木敏文会長が辞任したことが大きな話題となっている。中核子会社のセブン-イレブンの社長人事をめぐる社外取締役との対立の挙句、取締役会で自ら主導した人事案が否決されたことを受けてのことである。

 鈴木氏と言えば、言わずと知れた「コンビニ」の日本における生みの親的存在であり、イトーヨーカ堂創業者を退けて、イトーヨーカ堂、セブン-イレブン、西武百貨店/そごう百貨店をまとめて、セブン&アイ・ホールディングスを立ち上げ、その総帥としてグループ内で逆らう者もない絶対的な実力会長とみられていただけに、新聞、テレビは勿論、週刊誌までが特集を組んで事実関係に加えて「人事抗争の内幕」に至る報道合戦が続いている。

 この「事件」のポイントは二つある。いずれも戦後の日本企業のコーポレート・ガバナンス上、画期的なことである。
 ひとつは、初めて「社外取締役」が機能した点である。その場は2016年3月に自ら設置した「指名報酬委員会」であった。鈴木会長の人事案に社外取締役が納得せず、結局、指名報酬委員会の支持を得られないまま、取締役会が開かれた。社外取締役は、当然、鈴木会長提案の人事案に反対に回った。この、自ら指名報酬委員会を設置しながら、その同意を得られない人事案を取締役会に強硬提案した時点で、鈴木氏は経営者としての「資格」を喪失したと言えるだろう。

 もう一つのポイントは、米国投資ファンドであるサード・ポイント社が株主として、2016年3月に書簡を送り、人事案への反対と共に、鈴木会長の次男で取締役の康弘氏への「権力移譲の疑い」について公言したことだ。次男の取締役としての適格性は不明であるが、「経営に私心あり」と疑われるような経営者はその時点で明確な反論ができなければ「失格」であろう。

 日本企業でも、かつて、三越の岡田社長解任事件のように社外取締役によるガバナンスの発揮はあったが、それは三井グループという「企業集団」のパワーを背景としたものであり、トップが自ら招いた社外取締役が機能した訳ではない。米国株主も何度となく日本企業の経営に関与を試みてきたが、企業集団や株式持ち合いの壁に跳ね返されてきた。

セブン&アイ鈴木会長の辞任は、長期・高齢の経営者の弊害問題とともに、コーポレート・ガバナンス改革が「お飾り」や「体裁」では終わらない時代の到来を意味していると言えよう。

終身雇用、藩、そして新卒一斉採用

2016年03月2日

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 「一旦退職した社員を再び正社員として入社させる」企業が日本企業の中に出てきた。勿論、銀行業界などで広くみられるように、「一旦退職した社員をパートとして再雇用する」事例は以前からあった。また、昨今の女性活躍推進に関連して、総合職から一般職への転換制度等は存在してきた。

「一旦退職した社員を再び正社員として入社させる」日本企業が全くなかった訳でもない。IT産業など、人の流動化の激しい新興企業の中では見られた現象であるし、所謂大企業の中にも10年ほど前から「一旦退職した社員の再入社」を認める企業も出てきてはいた。但し、それは「以前所属していた所属先が了承すること」という条件付きで、事実上、機能してこなかったと言える。

御手洗キヤノン会長・元経団連会長はかつてから日本企業システムの特徴、特に強みとして、「日本企業は『藩』のような存在である」旨の主張を展開している。企業への帰属意識、忠誠心、生涯丸抱えの終身雇用制などを指してのことである。日本企業が終身雇用を中心とした「藩」であるならば、脱藩=退社・転職は死罪に相当する重罪であり、元の企業へのカムバックなど考えられないことであったのである。

目を欧米に転ずれば、一旦退職した社員が再び正社員としてカムバックすることはそんなに珍しいことではない。少なくとも、「一旦、辞めた奴」という冷たい目で見られることは考えられない。「どうした?戻って来たのか?また一緒に働けるな!」程度の意識であろう。会社が彼/彼女を必要とした以上、企業の人材ストックに加えるのは当然だからである。

 今年もまた、新卒の一斉採用へ向けた短期決戦が始まった。人材の長期評価、終身雇用を根幹とする人事システムを特徴とするこの国の企業が、入口=port of entry で超短期決戦=短期人材評価に依存しているのは異常という他はない。

経営のグローバル化と「プロの経営者」

2016年02月3日

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 最近、日本でも「プロの経営者」を雇うケースが出てきている。アップルコンピューター(日本)社長から日本マクドナルド社長に転身し、「マックからマックへ」とはやされた原田永幸(泳幸は自称)は2013年からベネッセホールディングスの会長を務めている。異業種のからの登用と驚きをもって迎えられたのが、日本コカコーラ会長から資生堂社長に転じた魚谷雅彦である。ローソン会長からサントリーHD社長に抜擢(?)された新浪剛史も記憶に新しい。いずれも以前の企業でみせた経営手腕を評価されてのことであった。

2015年の年末には、2011年に「プロの経営者」として日本GEトップからLIXILグループ社長に登用されていた藤森義明が降板し、後任に工具通販大手のモノタロウ会長の瀬戸欣也が登用された。藤森氏はLIXILを急速に「グローバル化」したが、中国事業で躓き、責任を取らされた模様である。

「内部昇進」を専らとして人材を育成・精査し、時の社長(会長、最近では時としてCEO)の眼に適った人物を自らの後継者に指名する、というのが伝統的な日本企業におけるトップ・マネジメントの交替パターンであった。長い間、「プロの経営者」を企業の外部からスカウトしてくるというのは、日本企業にとって、未曽有の経営危機など、余程のことが無い限りあり得ない選択肢だったのである。

勿論、内部登用の社長が「プロの経営者」ではないということではない。瀕死の松下電器産業(現、パナソニック)をV字回復させた中村社長、製造業史上最大の赤字を記録した日立製作所の経営を立て直した川村会長兼社長も「プロの経営者」に挙げられるべきであろう。

ただ、中村社長の対策も川村会長兼社長が採った再建策も、いずれもドラスティックなもので、従来の日本企業にみられる「みんなで何とかする」対応ではなく、トップダウン型の、川村氏の言葉を借りれば「欧米企業型の」経営改革であった点は見逃せない。

成功した経営改革の処方箋を見ていると、経営のグローバル化は、日本でも「プロの経営者」の時代を招来しつつあるようである。

戦国時代、儒教、そしてグローバル人材

2016年01月2日

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 よく現代日本の置かれている状況を、幕末期~明治維新、第2次大戦の敗戦に並ぶ第3の危機と言うことがある。1990年代以降の「失われた20年」という日本の経済社会の低迷は、それほどに深刻なのだという意味が込められてのことである。

 第2次大戦の敗北とその後の混乱は措くとして、幕末から明治維新に至る混沌は、多くの藩で下級武士の危機感と西洋文明(知識、技術、とりわけ武器)の急速な取入れから明治維新へと進展した。「黒船が来たら、見たい」と思い、「アメリカに行きたい」と黒船に乗船を試みた行動主義者=吉田松陰、上海密航で英国に食い物にされる中国(清)を目の当たりにした高杉晋作、英国への密航で実際にロンドン=西洋文明を知ってショックを行けた伊藤博文らは、偏狭な国粋主義=攘夷論を捨て、開国派となって明治維新へと日本を導いた。

彼らは江戸時代の日本にあっては異端児であったかもしれないが、江戸時代=徳川政権以前の日本人は、海外との貿易取引、宣教師の来日などもあり、もっと世界を意識していた。主として中国、朝鮮が外国であった時代に比べて、戦国時代には、日本も日本人も地球に目が向いていた。ローマ法王に会いに行った長崎の少年たちや洋風デザインとしか言いようのない兜をかぶった戦国武将たち。裏切りや親殺し(跡目争い)も珍しくなく、江戸時代以降に「日本人の特徴」と言われる「島国根性」や「自分の意見をはっきり言えない・言わない」消極性とは無縁であったと言えよう。日本人も十分にグローバルだったのである。

そうした日本の「グローバルに通じる文化、風土」がどこで変わったのか(?)それは江戸時代の支配者=徳川政権による徹底した250年に亘る思想教育、儒教にあると考えていい。儒教の教えそのものが悪いという意味ではない。徳川政権は、「とにかく徳川の世が続くこと」を至上命題として、支配の道具として「自分で考えないこと」「前例に従うこと」「上を立てること」「秩序に逆らわないこと」の部分だけを士農工商全ての日本人の頭に刷り込んだのである。250年は長い。250年に亘る思想教育、それはそれまでの日本人の持っていた創造性、自由な発想、行動力etc.を奪い去った。

 大切なことは、日本人がもともと自由な発想力に欠けるとか、長幼の序を重んじるあまりに創造性が低いとかいうのは、間違った認識であるということだ。それは日本人のDNAから来るものではなく、いまだに残る幼少期からの躾け、初等・中等教育、日本企業の社内教育の結果、後天的に身に着いてしまっている「行動特性」に過ぎない。そういう「縛り」から解放されれば(された人は)、日本人は十分に「グローバル人材」たり得るのである。
 

五郎丸、女性活躍推進法、そして人生

2015年11月26日

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 五郎丸選手の活躍が脚光を浴び、日本ではマイナーなスポーツであったラクビーが一躍人気スポーツとなった。今年の流行語大賞は「五郎丸ポーズ」(?)かというぐらい大人も子供も、男子も女子も例のポーズを真似ている。五郎丸選手は日本と海外で選手登録されることになった。野球、サッカー、ゴルフに続いて、日本人がグローバルにプロとして活躍するのはうれしいものである。

 国内では首相が「一億総活躍社会」の実現を唱えているが、「一億総XX 」というのは、歴史的にあまりいい結果を残したことはないようである。それはともかく、今、日本では、この「活躍」という言葉をめぐって議論が巻き起こっている。

 議論が巻き起こっているのは、来年4月から日本の大企業に適用されることになった「女性活躍推進法」への対応問題である。グローバルに見て低いレベルにあると言える日本での女性の社会進出を促すべく、企業に女性の管理職登用度などの数値目標の設定・公表を課そうというのである。

 議論は主として、「数値目標で縛るのがいいのかどうか」をめぐってなされている。目標を無理に守ろうとする企業が出ると、そこでは有能な男性社員の管理職登用が遅れる恐れがあり、むしろ「逆差別」が生じる可能性があるからである。

 何かを達成しようとするときに数値目標を課すことの良し悪しは、古くは米国の黒人差別問題、自動車の排ガス規制、地球規模での環境問題など、枚挙に暇がない。賛否両論、どちらの言い分にもそれぞれ正当性と歴史的事実の重みがある。

 「女性活躍推進法」の問題に戻ると、よく考える必要があるのは「活躍」の意味である。女性管理職比率の高さや、役員会に占める女性役員の割合などは勿論、女性の活躍を示すものであろう。しかし、企業で普通にきちんと仕事をこなしている上に5時からの趣味も持っているOLや、家事と子育てにPTA役員の仕事をてきぱきと切り盛りしている専業主婦は「活躍」していないのか、という原点である。

 女性管理職比率の低さや女性役員の少なさばかりが取り上げられるが、人生を活き活きと生きているのは、むしろ女性の方ではないのか(?)残業地獄や接待社会で自分の時間を持てないでいる男性社員の仕事の仕方を変えることも女性の活躍に役に立つのではないだろうか。今一度、「活躍する」ということの意味を考えてみたいものである。
 

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