金魚の死、人生、そしてディスカッション

 自宅の水槽で飼っていた(?)全長15㎝の金魚が死んだ。長崎で買い求め、ANAの東京行便の機内持ち込みで「機内空輸」された珍しい金魚であった。推定年齢=5歳。買った時、その金魚を養殖した人の話では、金魚の寿命は3年程度で、たまに20年も生きるのがいるということであった。それが正しいとすれば、平均寿命よりも2年ほど長く生きたことになる。

死は突然であった。昨日の夕食はもう一匹の相棒と争うように元気に食べていた。が、今朝、もう朝食は不要であった。病気でもないし、もう一匹の様子からして夕食に当たったということも考え難い。そもそも金魚専用の餌を少量与えているだけで、金魚専用の餌というのは乾燥したゴマ粒大の丸い撒き餌で、腐るような代物ではないのである。

突然死、というのは、悲劇である場合(例えば、働き盛りの若い父母のケース、跡取りがまだ決まっていない名家の主人など)もある。が、反対に、長く苦しまないで死ねる(自分)、寝たきりや痴呆になって家族や周囲に迷惑や負担を掛けない(家族、周囲)、など、その時の悲しみは深いけれども、長い目で見れば、周囲の人の人生を犠牲にする(介護疲れ、経済的負担、介護退職!)度合の低い場合もあり得る。

第一に、人は毎日を悔いを残さずに生きた方がいい。人生の終わりは何時いかなる時に予想もつかない形で訪れることがあるかもしれないことを、私たちは4年前の3月11日に経験した。明日やろう、ではなく、今日やれることは今日やろうという精神で生きていた方が悔いが少ないような気がする。無理をする、という意味ではない。逆である。楽しみを我慢したり、先送りしたりしないで、仕事も趣味も今日やれることを今日やればいいのである。これが、案外、日本人の苦手なスタイルではないのか。

次に、dead body の取り扱い方の問題がある。我が家の金魚は庭に埋めた。即ち、土葬である。犬、猫は近頃は火葬も多いようである。日本では火葬が基本であるが、欧米、中南米、アフリカでは土葬が主であろう。土葬の考え方の基本は、死者(のbody )を「土に返す」ことにあるのではないか。魂は天(神)の下へ向かうからである。日本人が火葬にこだわるのは「骨を拾う」ためである。拾った骨を大切に墓にしまっておけば、ほぼ永遠に家族とともに在る。仏教思想の輪廻とも考え方の基本が違うようである。

家族の基本を親子関係にありとすれば、子にとって親とは自分の生まれて来たもともとの要因、即ち原点であろう。日本人のディスカッションの特徴のひとつは、「原点論議」好きである。「これからどうするか」という議論をしているうちに、白熱して「そもそも問題は……」と原点を問うものになるケースが少なからずみられる。こうなると責任論が出て来るので、感情論に陥るリスクも高く、解決策を求める目的とは真逆の会議になってしまう。

実は、第一の「今日やれることを今日やろう」という生き方と、この「とにかく、これからできることは何かを考えよう」という精神は通じるものがある。それはある種のプラグマティズムなのかもしれない。そして、それは、日本人の最も苦手な生き方、考え方なのではないだろうか。

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