テレワーク、監視社会、そしてジョージ・オーウェル?

 東京オリンピックまで2か月を切り、国内外で開催の是非が議論される中、コロナ禍対策としての「緊急事態宣言」の発出に歯止めがかからない。ウィルスの変異種増加も言われており、対策として「テレワーク」の強化も要請されている。

 ただ、このテレワークの強化要請、「出勤者の7割削減」という目標を伴っており、「在宅勤務を増やして人の流れを削減したい」という意味に近いと思われる。主要各紙も在宅勤務がらみの特集記事が多く、各種アンケート調査でも「出社率の削減」が一つの焦点である。

 コロナ禍対策としての人と人との接触機会の削減であれば、何も「在宅勤務」でなくても「リモートワーク(遠隔勤務)」であればいい筈だが、単なるテレワークでは出社した上で営業先を直接訪問しないとか、社内会議をリモートで行なうなど出社することに伴う人流は必ずしも減らないため、敢えて「テレワーク=在宅勤務」の意味で使っているものと思われる。

 ところで、テレワーク=在宅勤務には危険が潜む。社員が自宅で仕事をするとなると、第一に労働時間管理の問題=労働時間の把握問題が起こる。パソコンを開いて作業している時間はいいが、合い間に考え事をしている場合は労働時間に含められるか、職場ではよくあるちょっとした同僚との雑談に当たるものはどうなのか……

 更に、パソコンで作業ファイルを開いていても操作が連続しないケースは、考えながら仕事をしているのか単にぼうっとしているのかよく分からないなど、在宅勤務の中身に入っていくと問題の根は意外と深いように思われる。

 そこで登場するのが「監視ソフト」である。社員が使用したファイル名称、やり取りしたメールの件名、サイトの閲覧履歴などの情報を収集するソフトを社員のパソコンにインストールすることで「働きぶり」を把握しようというのである。更にパソコン搭載カメラを使った何かが加われば、もはや在宅生活そのものの「監視」に近づいてしまう。生活の場の中にまで踏み込むと、プライバシーと仕事の線引きは難しい。

 かつて、ジョージ・オーウェルは1949年に発表した未来予想小説『1984』で、独裁国家の中で国民が絶対的統治者から「テレスクリーン」と呼ばれる装置で24時間、生活を監視・支配される姿を描いてみせた。今、70年の時を経て、「情報」「データ」「プライバシー」、更には「自由」や「働く喜び」の意味が改めて問われているのかもしれない。

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