“Declining Cities League”と逆境のユーモア

 話は昨年7月に遡る。アメリカ自動車産業の一大中心地、アメリカ中西部の大都会、デトロイトが財政破綻したニュースは世界を驚かせた。新聞、テレビの報道は多岐にわたり、日本経済新聞の「経済教室」に「デトロイト破綻の教訓」という論文が掲載されたぐらいである。

 今回の破たん騒動の原因や、そもそもデトロイトという都市が持つアメリカの大都市の象徴的な存在であったことの意味などはここで問題にするつもりはない。考えてみたいのは、人間、企業、自治体(あるいは国も?)……が栄えるとき、いつかは衰える時が来るということ、そして一番大切なのは全盛期を過ぎたとき、人はそれをどう受け止め、それにどう立ち向かうかという問題である。

 デトロイトの破綻についてGMの破綻と関連付けて書かれたものが多いが、それ以前に、全盛期を過ぎ、財政的困難に向き合わざるを得なかったアメリカの大都市にピッツバークがある。言うまでもなくアメリカ鉄鋼産業の一大中心都市である。

 ピッツバーグも鉄鋼産業の沈滞、低迷を受けてさまざまな産業振興を図ったりしたが、ユニークなのはデトロイトや日本の北九州市(石炭産業と鉄鋼業の相次ぐ低迷)と組んで、“Declining Cities League”を結成し、毎年、「どの都市が一番低迷から脱出に成功した度合が高いか」を競って、一番の成績を取ると表彰するということをやっていたことである。

 まず、命名がいい。ともすれば暗くなりがちな気持ちを逆転させ、自ら“Declining City”だと名乗るユーモアがいい。そして仲間を募る発想もいい。世の中、栄枯盛衰は常に起きる。身に降りかかった火の粉は自分だけではないだろう、それならいっそ、同じ境遇の身で集まって何かやろうという前向きさもいい。

 我が北九州市も「公害を減らし、青空を取り戻した」ということで表彰されていた。1990年代のことである。それから20年が経ち、残念ながらデトロイトは財政破綻に陥ってしまったが、もし自らDeclining Cityと名乗り、“Declining Cities League”を結成する精神を持たなかったら、破綻はもっと早く来ていたかもしれない。

 苦境に立つとき、日本人は額にしわを寄せ、肩身を狭めて歩みがちである。苦境や危機にユーモアなんてとんでもない、というのが常識であろう。しかし、サムエル・ウルマンの詩にあるように、「失望は老いを早める」だけである。逆境、苦境に陥っても「希望」を持てるのは、案外ユーモアの精神とその心の余裕なのかもしれない。

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