都心型キャンパスと大学の競争力

 お茶の水、神田、神保町の辺りの大学街には高層ビルが並んでいる。見たところ周囲のオフィスビルとは区別がつかない。まあ、上の方に大学名が大きく掲げられているから、大学であることはすぐに分かることは分かるが……

先鞭を付けたのは確か明治大学であったように思うが、10年前後ぐらい前から神田、神保町を中心とした大学キャンパス街に高層棟が建てられるようになった。一昔前の「老朽化=郊外移転」型モデルが転換したのである。40年前に都心の一等地を企業に売り払って郊外(八王子)に移転した中央大学などは、慌てて都心に拠点を確保しに走ったくらいである。

 中央大学を例にして、その関係者には申し訳ないが、余りにも学生生活や教育、特に自らの競争力を支える基盤が何かということに対する理解が浅かったと言わざるを得ない。

 第一に、移転当時から学生たちはキャンパスが不便な立地であり、通学時間がより長くなったことに不満を漏らしていた。第二に、移転先は余りにも田舎で、学資(生活費も含めて)の源泉であるアルバイト先としての飲食店などが少ないことも不満の種であった。

 しかし、最も重大な見落としは、自らの大学としての競争力、知名度の基盤であった「法曹界に人材を輩出する」機能が、実は大学教育のみにあるのではなく、意外にも「仕事帰りに後輩の司法試験向け勉強を指導する熱心な法曹関係に従事する卒業生たちのボランティア精神」にあったことであろう。

 教育というのは必ずしも教室内のみで行われるものではないことは知られているが、中央大学の「司法試験合格者数日本一」を支えていた要素に、法曹界の実務に就いているOBの「仕事帰りの指導」も加わっており、郊外移転した途端、物理的にそれが不可能になった(失われた)ことが大きい点が指摘される。

 中央大学に限らず、少子化現象の中で、定員割れを恐れて都心回帰を図る大学が続出している。それらの大学が郊外移転を図った時には、一体「教育」の何が「構想」されていたのであろうか。それが仮に、郊外に広がる広大な緑溢れるキャンパス、広いグランド、大きな図書館……であったとしたら、キャンパス計画を立案した教授陣が若い時に留学した米国の大学モデルを単純に「輸入」しただけだったのかもしれない。

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